are-kore/視る向きの奥似たる人時越え訪れることあるそのとき
are-kore/厳冬無ければ温もる春の訪れも無しと線上のcrow
are-kore/夜空カイチュウデントウ向ければ光淡く月に触れる
たまたま、いままた内田百閒(1889-1971)さんのものを読む機会が訪れて、むかし読んだ「冥途」だとか、「旅順入場式」など、文庫本のページにしても5ページほどしかないようなものなど、読んでみているのだけれども、3日前、月一回の医者に行って待っている間に開いて「波止場」というタイトルのこれは8ページほどになるものだがその最初のページに、「性根の悪い色をした青黒い水」という表現が出てきて、なんだかまた百閒さんの人間そのものに絡まるなにかがそこにもあるような印象を覚えた。水に人間のような性根があろうとも思えない。
「祖母に溺愛されて育ったためもあってか、非常に頑固偏屈かつ我儘で無愛想な人物として知られ、またそのことを自認してもおり、よく作品内の素材に利用した」。そのようなことなので、そこに入りこめば、その特有とも思える個性とつき合わざるを得なくなる。通常の人間の感覚を物差しのように脇に置いて、彼独特な心の風景に思いを向けつつ、あれこれと巡らせて。つまりは、それはそういう人の世界のこと、それゆえに見えているその足跡。そこに人間のなにを見、感じる? そんな材料である、百閒さんという人、或いは文学とのつき合い、しばし。
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本日の、これは非常に危ない自身の初めての経験。近辺を動く時には、概ね自転車を利用。私はdiabetes18年目、というようなことはあるけれども、血圧はほぼ正常で健康面で特におかしさも感じていない、という状況。よって普通に走っていた時に突如なにか分からないものに支配され、自律感覚を失ってフワフワと漂うように歩道から、30センチほどと段差のある車道に落ちて行ったという事態は、考えられもしなかったこと。前を行く車の後部が眼に入る。後ろから来る車に当てられても、どうにもできない。自転車は横倒しになったが、こちらは膝をつく形でなんとかこらえられて。
第三者が見たら不注意で、走行中に車道に落ちてしまったとしか映らなかっただろうが、こちらは乗用車やトラックの運転者が、運転中に意識混濁を起こして歩行者を轢いてしまう場合の、自律不能状態に陥ったのと同じようなもの。自分ではどうにもできないという事態。頭の中に痛みのようなものは全くない。歩道に戻ってからも、頭の中がモワモワとして定まらず、歩けないので道脇で動けるようになるのを待つ。もちろん、不安定な状態はつづいてもう乗ることはできずに引いて戻ったけれども、道々、これではもう危なくて自転車などは利用ができないと思ったもの。
脳卒中で倒れた知人のことなどが、甦る。でもそれとは違って耳の方に関わる症状による、という印象。昨年の夏あたりから左右の耳の内側の具合がおかしくなって、漸くここのところ一段落した気配であったのだけれども、どうもそちらとの関わりと思える。友人にメニエール病なる持病のある者がいるので、その感覚がちよっと分かるような気にもなったが、また通常の感覚に戻ってみると、喉元を過ぎれば、というふうで自転車は変わらずに利用する。但し、今後は注意深く、ということは当然。
ページの無い内田百間処女作品集「冥途」(1922)の初版本目次
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are-kore/飛躍ある処の訳ありに夕べの直立食指
名手の音外し。 monkey、うっかりと落下した木は、たまたま滑り易くて。 であったのか、そうではないのか。 真ん中とると、そこから飛び立つ、波長。 ではない、白鳥。 その間に何が起きているのか、起きるのか。 そこにひとつ差し込む、検死庁長官の万引き。 と言えば多少の飛び過ぎと見て、警部の行為に差し替え。 次には、当の白鳥が置き引きなどと。 何かしら、常に飛び立つ。 それを確実、と見る。 いやでも、そうなる。 いやでも、検死好みの検死庁ならぬ警視庁の長官。 というのは、たまたまの極楽鳥の名前。 空には虹色の雲。
23 October 或る人は、別の時間軸をイメージしてたいした年数ではないと言う。でも、にんげんにとっては、やっぱりたいした年数、100年。生きること。あなたにできますか? と問われてyesと自信ありげに言える人も少なかろう。2パーセント? その100歳でこの16日、カナダはトロントにてフルマラソンを完走のシーク教徒、ファウジャ・シン。8時間 25分 16秒。日本の100歳、日野原重明医師も対抗心燃やして、駆け出しますか? そのお姿拝見したいと言う人もいないでしょうけれどね。なんにしても、ひとつの貴重な人類的達成とみて、世界的賞をあげたいような快挙ではありませんか。もしまた、101歳にしてフルマラソンの完走など果したら、その驚異の度を上げることになるのではないかな。1歳加わるだけで、それはもう。
私の十代の頃の記憶に刻まれている名前に、ミルカ・シンというインド人アスリートがいる。ターバンを巻いたシーク教徒。1960年のオリンピック・ローマ大会で400メートル、4位。アジア大会では金メダル。インドでは陸上界の英雄となっているとか。ターバンを巻いた100歳のフルマラソン完走のニュースに、彼のことが甦ってきた。ついでに検索をしてみたところが、Wikiで見られたのは、ジープ・ミルカ・シンという1971年生まれのプロゴルファー。インドを代表するプレイヤーだとか。それが、私の記憶に残るミルカ・シンの息子であることを知る。それはさておき、完走者がインド系、シーク教徒だったこと。そこに見えてくるものも、なにかあるのだろうか? そのようなことも、ちょっと思わせたこと。
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are-kore/見えすぎても行き着く先闇深しでは
1 October われわれ、永遠などということを、よく言うものだけれども、短かなhistoryしかない人類の未来に、それはないのですねえ。時間は、限られております。孤独死。哀しいイメージでとらえられるものながら人類の死も、まさにそれになるのではないかな。蝉の夏もとうに終えて、本日は、衣替えの日。
4 October 「蝉の夏もとうに終え」と書いたことを思い起こすようなことが今朝。歩いていると、車道脇の路上に仰向けの蝉が、一匹。すっかりと秋の気候で、晴れの日だけれども、肌寒さがある。もう蝉のいる時期とも思えなかったから、まだいたのかという思いと、以前死んだ蝉がたまたまそこに見えているのかという半信半疑の思いで拾い上げてみると、それもちょっと予感にはあったのだが、足が動くのである。此方の指にその先をかけようとする。生きていたということは、蝉の季節はまだ終わってはいなかったということ。もう死ぬばかりのところの蝉君を、道脇の木の根元に置いてあげた。むろん、夏の方は、とうに彼方。





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